Ime

出生地、身分、職業、経済状況などにより、それまでは異なるグループに属すると考えられた人たちが、「日本」という大きな単位の下、等しく「日本人」「国民」というカテゴリーが与えられ、大きな共同体の一員として統合される。

福島青史,移民と戦争の記憶ーことばが海を渡る「複数の言語で生きて死ぬ」山本冴里編(株式会社くろしお出版),2022(p.44)

 

人は他者と関わる際、「わたしは〇〇だ」の「〇〇」にさまざまな要素を入れて、ほかでもない「わたし」である自己を同定する。この「わたし」の構成は、右の民族性など自己が属する集団イメージのほか、行動の拠り所になる信条、価値観、世界観によってなされる。「わたし」という虚像の仮面を利用し、その役割を果たすことで、意味ある世界を生きるのだ。しかし、この自己像は、常に他者からの承認を必要とする。いくら「わたしは〇〇だ」、と言っても、相手が否定すれば、その自己像は成立しない。よって、「わたし」は、自分が持つ自己像と、他者が持つ自分の姿が矛盾しないよう、常に確認、修正しながら生きることになる。

福島青史,移民と戦争の記憶ーことばが海を渡る「複数の言語で生きて死ぬ」山本冴里編(株式会社くろしお出版),2022(p.50)

 

樹名板

屋号

河津町では、今も屋号で呼び合う風習が残っている。

名前よりも屋号の方が広く知られていることもあるそうです。

苗字が同じ人が多いからではないか、という話も。

 

塀の内 ほりのうち

昔、西川家の家来で広い屋敷内の塀の内にあったので。

 

玄幡 げんば

昔、地域の祭りで芝居をやっており、「玄幡」という役を忠臣蔵で演じたところ大変上手ともてはやされ、そのまま屋号に。

 

俊造様

玄幡の家の以前の屋号。

 

笑居程 わらいほど/わりゃーほど/わらほど

家を建てる際、斜面を整地したところ地中から面白い形をした“ほど”(木の根か/塊)がたくさん出てきて大笑いしたため。

 

ポッポ

嫁入りの際につれてきた鳩が珍しく、近所のお年寄りが「ポッポを見に行こう」と集まったため。

 

 かみ

縄地金山で栄えた由緒ある家柄、唐人お吉も立ち寄った。ポッポの家の以前の屋号。

 

我ヶ井戸 わがいと/わげいと

源頼朝や河津三郎も使ったと言われる“我ヶ井戸”があるため。

 

どうらん

胴乱(薬や印を入れて腰に下げる革製の四角形の袋)を書類入れとして使っており、ちょんまげで刀をさし、ワラジばきに胴乱を肩からハスにかけた姿から「どうらんジイサン」と呼ばれるようになったため。

 

先役 せんやく

字が書ける人が少ない時代に大変筆が立ち、上河津村の名主に任命されたことから「一番先に役人になった」ことが“さきやく”と呼ばれるようになったことから。

 

どんばね

①殿馬根…先祖の住居が河津三郎の馬屋敷だったため

②土跳…先祖の住居の前が河津三郎の馬屋敷で馬がよく土を跳ねるため

 

論場 ろんば

普門院(かつての箱根の関所)にのぼる許しを得るために、ここで禅問答をしたことから。

 

旗場 はたば

大阪城が落城したころ、上佐ヶ野のお宮に明神様をお入れするため運ばれてきた神輿を畑に安置し一服したことから、以来秋祭りには家の前にお宮の旗が立てられるようになったため。

 

火防 ひぶせ

家の前のお地蔵様には「近くで火事があってもお地蔵様のところまで来ると不思議と火が消える」という言い伝えがあり、火防地蔵と呼ばれていたことから。

 

ねこや 

猫を飼い出した頃から「ねこや」といわれるように。その数12、3匹もいたという。

 

くばいと

林際寺までの参道に続く二つの街道がいつしか家号になり、上街道が「わがいと」、久保街道が「くばいと」と呼ばれるようになった。

 

千万歳 せんまんざい

源氏再興の願いがかなった頼朝が、父の霊を弔うため家来を連れて小鍋神社を訪れた際、泊まった家に感謝の意を表し、いつまでも栄えるようにと“千万歳”の名を与えた。

 

大荒倉 おおあらくら

村の人たちの収めたお米がまとめて管理されていた倉が、白壁ではなく、きめの荒い土壁のような造りだったため。

 

伊勢屋 いせや

お伊勢様のお札が、神に仕えた人に背負われて、全国各地に配られていた頃、配達人が泊まる家だったため。

 

下村 したむら

室町時代、足利尊氏の家来だった鈴木一族が河津に流れ着き、まだ荒野だった土地を開いて住んだ一帯を下村と呼んだ。

 

らじおや

昭和20年頃、ラジオ好きの主人にラジオ修理の依頼が来るようになったことから。

 

垣内 かいどう

ぐるりと石垣に囲まれた広い屋敷が、石垣の中にあるということから。

 

平六 へいろく

「河津のむかし話」(稲葉修三郎著)に出てくる「力持ちの平六*」の名が、明治以前から屋号として呼ばれるようになった。

*昔、梨本に平六という力持ちが住んでいました。少年の頃、力持ちになりたいと八幡様に願をかけ、毎日藁一束を担いで21日間お参りを続け、力を授かりました。力持ちになった平六は田んぼの石垣を積むのに、石を砲丸投げのように投げ集めたり、いつも弓を持っていたので、弓持ちの平六ともいわれていました。ある日、近くの家で赤ん坊が大鷹にさらわれた時、すかさず弓を取り、向かいの山の物見岩に赤ん坊をおろし羽をやすめている鷹をめがけて矢を放ち、胴体に命中させ無事助け出しました。平六は、天和元年、大阪落城で伊豆へ落ちてきた3人の兄弟武士の子供だそうです。

 

 とうげ

小さな峠道に小さな茶屋があったことから。

 

長泉屋 ちょうせんや

大正5、6年頃、朝鮮鉄道(後の満鉄)の敷設の技術者として朝鮮に渡り、大正12年の大震災を機に帰ってきた際、屋号を隣組に相談したところ「朝鮮へ行ってきたからちょうせんやがいいじゃ」という人がいたことから。

 

頭家 とうや

天保14年、狼による被害を鎮めようとまつられた「見留女神社」を権禰宜として守ってきた。この権禰宜を当時は頭家と呼んだことから。

 

福田家 ふくだや

明治の最初の頃、先代が福がつくものが大好きでとうとう屋号にも福という字をつけてしまった。

福田家は伊豆の踊り子の川端康成の泊まった宿。

 

柿の木 かきのき

邸内の大きな柿の木ゆえか。

 

生薬や きぐすりや

自宅で各種の原材料を調合し販売する薬屋であったことから。

先代が名前も素姓もわからぬふらりと現れた一人の男を家に住まわせ面倒を見たところ、この男が漢方薬の調合を伝えたとのこと。

 

カミヤ

江戸の紙問屋伊勢屋からのれん分けした「伊勢屋きへい」という紙屋をしていたことから。

終戦後に嘉美屋からカミヤへ。

 

もんじゃ

黒文字という木から油を絞る仕事をしていたことから。くろもじの発音がなまってもんじゃに。

 

会所 かいしょ

祭りの時、食べ物や酒を振る舞って、人が寄ったところだから。

 

醤油屋 しょうゆや

大正6年、天城の水がいいということで醤油造りを始めたことから。

昭和36年に後継が旅館を開業するが「正油屋旅館」としたそう。